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島(しま)病院

爆心地


 T字型の相生橋を投下目標にしたとされる原爆は、島病院の上空約600mで炸裂した。

小型の太陽ともいえる灼熱の火球は直径280mに膨れ上がり、中心温度はセ氏100万度を超えた。 爆心地周辺の地表面の温度は3,000〜4,000度にも達し、秒速440mの爆風が吹きぬけた。 (*鉄の溶ける温度は約1,500度、太陽の表面温度は約6,000度)。
  そして、通常の火災や爆弾では見られない、 花崗岩のはく離や瓦が泡状に火ぶくれをおこす,といった現象が観測された。
 花崗岩に含まれる石英はセ氏573度で変体するとされているが, 広島では爆心地から1,000メートル以内の地域で観測されたと言う。


広島郵便局

爆心地直近


 デルタの街で「本局」の名で親しまれた広島郵便局と同じ細工町内で 、通りを挟んで西向かいに所在する島病院の南西側の上空580mで原爆はさく裂した。 爆心地附近では直情に於て、 爆発のため爆風を垂直方向(垂直荷重)に受けたが広島郵便局(本局)跡に3基の鉄柱鉄塔が完全に残った。

 局舎の焼跡には、おびただしい数の白骨と黒焦げの死体だけが、瓦礫と共に残っていた。

 多聞院に建つ「広島郵便局殉職者之碑」には、288人の職員や動員学徒の名前が刻まれる。


西向寺の墓石


爆心より70m


 白神山天遊院西向寺は浄土真宗本願寺派の寺院。

爆風で本堂や庫裏は吹き飛ばされ、悟慚前住職(故人)の母親たち四人が被爆死。

約千基の墓石のうち、約七百基が無縁仏になったといわれ、 今も約三十基の墓石は被爆当時のままの熱線で石の表面が溶けた痕跡が残る。

 被爆した墓は「石ハネ現象」といいすべて頭頂部のみが原爆の熱線で焼け、ザラザラしている。 これは、花崗岩で出来ている墓石の表面の石英が、熱変成により膨張し、 他の造岩鉱物の膨張率との間に差が生じてはじけ飛んだ物と考えられている。

 原爆の熱線は、1秒の何万分の1という一瞬の内に墓石表面を焼いて、石英部分をはじき飛ばし、 その後に爆風が墓石を吹き飛ばしたそうである。


西蓮寺の被爆地蔵尊


爆心より80m


 華臺山池水院西蓮寺は浄土宗の寺院で御本尊・阿弥陀如来である。 福島正則が治めていた慶長10年に開基された。

 寺は爆風により瞬時に痕跡も留めぬほど破壊されつくしたが、 倒壊しなかった墓石と共に、瓦礫と化した墓地の中で屹然と地蔵が鎮座していたと言う。


原爆ドーム


爆心より160m


 俗に原爆ドームの名で知られる爆心地から160メートルの距離の広島平和記念碑は、 1996年にはユネスコの「世界遺産」に登録された。
 原爆の惨禍を伝承していく役割と共に、 核廃絶と恒久平和実現に対する日本人の平和への願いの象徴でもある。

この建物は、1915年(大正4年)に「広島物産陳列館」として開館したのが始まりで、 原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。
 設計は、チェコの建築家ヤン・レツルによるもので、 レンガ造及び一部鉄筋コンクリート造3階建一部5階建で、 ネオ・バロック様式とセセッション様式が入り混じるプラハ建築文化の影響が色濃く出た当時としても珍しい 大胆な発想の洋風建築であった。
その特徴は、大きくうねりを繰り返す大胆なデザインの壁面。 中心に据えられた銅板葺きの楕円形ドーム。
 元安川や相生橋という周辺景観との連続デザイン。

 高度な技術を要する洋風デザイン建築を当時の広島の職人達が成しえた 事も含め日本の建築を代表するモノであった。


元安橋


 爆心より130m


 華臺山池水院西蓮寺は浄土宗の寺院で御本尊・阿弥陀如来である。 福島正則が治めていた慶長10年に開基された。

 寺は爆風により瞬時に痕跡も留めぬほど破壊されつくしたが、 倒壊しなかった墓石と共に、瓦礫と化した墓地の中で屹然と地蔵が鎮座していたと言う。


燃料会館


爆心より170m


 この建物は、1929(昭和4)年、大正屋呉服店として完成した。 原爆により屋根が押しつぶされ、内部も破損、地下室を除いて全焼。 しかし、爆心地の近くでありながら爆心地側に開口部のほとんどない強固な建物だったためか、 基本的形態はとどめたのであった。 被爆当日、この建物には37人が勤務しており、地下室にいて奇跡的に生き残った1人をのぞいて全員が犠牲となった。 戦後直ちに改修し、燃料会館として利用され、1957(昭和32)年には広島市東部復興事務所がおかれ、 都市の復興の拠点として貢献し、現在に至る。
Harry S. Truman
ハリー・S・トルーマン

広島県商工経済会

爆心より260m


 全国でも東京,大阪に並ぶ早い時期、明治24年に広島商業会議所が設立された。
 昭和3年に広島商工会議所と改称し業務拡大に伴い新ビルを落成、 細かな装飾を排除したインターナショナル・スタイルの捷物は、 高さのやや異なる2つの棟がL字形に接合する形で,これに展望楼が添えられていた。


動員学徒慰霊塔

広島平和都市記念碑


設 計    丹下健三
石室の碑文 雑賀忠義

世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立したもの。

原爆死没者慰霊碑の石室前面には、

 「安らかに眠って下さい 
過ちは 繰返しませぬから」

と刻まれている。



平和の灯(ともしび)


水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため造られたこの火は、 1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、 「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっている。

国12宗派から寄せられた“宗教の火”、 溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が 1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火されたのであった。

そして、核兵器廃絶と被爆者援護の充実を訴えて、 広島県内の市町村を一周する「平和の灯リレー」が毎年行われている。



原爆の子の像



 2才で被爆し、10年もたってから、 白血病により短い一生を終えた少女「佐々木禎子さん」をはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、 世界に平和を呼びかける象徴的な像である。

禎子さんが死の直前まで、生きる願いを託して折り続けた千羽鶴がモチーフになっていて、「千羽鶴の塔」「折り鶴の塔」とも呼ばれたいる。

碑文 「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」

この付近にあった三井生命広島支店は全壊全焼し、建物の中心にあった金庫室の残がいがかろうじて残った。



滋仙寺の鼻 原爆供養塔


爆心地に近いこの付近には無数の遺体が散乱した。

 被爆直後、慈仙寺(現在の原爆供養塔付近)の境内は、臨時火葬場となり、 そこには、川から引き上げられたものなど、 氏名、年齢、性別などほとんどわからない痛ましい数限りないの遺体が運ばれ、その後、荼毘にふされたのであった。。

 1946(昭和21)年市民からの寄付により、仮供養塔、仮納骨堂・礼拝堂が建立され、 その後10年経った1955(昭和30)年広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、 各所に散在していた引き取り手のない遺骨もここに集め納め供養している。


韓国人原爆犠牲者慰霊碑



 当時広島市内には、数万人にのぼる朝鮮人がいて被爆したといわれている。

碑文(裏面)日本語訳

「悠久な歴史を通じて、わが韓民族は他民族のものをむさぼろうとしなかったし、他民族を侵略しようとはしませんでした。(中略)
しかし、5千年の長い民族の歴史を通じて、ここにまつった2万余位の霊が受けたような、悲しくも痛ましいことはかつてありませんでした。
韓民族が国のない悲しみを骨の髄まで味わったものが、この太平洋戦争を通してであり、その中でも頂点をなしたのが原爆投下の悲劇でありました。・・・」


動員学徒慰霊塔


建立者 広島県動員学徒犠牲者の会
設計者 村田相互設計  
     円鍔勝三(陶板)

 政府は労働力の不足を補うため、1944(昭和19)年8月に学徒勤労令を発し、 中学生以上の生徒は軍需工場等での増産協力の勤労奉仕や空襲による延焼防止のため、 民家などの建物を取り壊し火避け地や消防道路をつくる建物疎開作業にも、 多くの生徒が動員されたのであった。  広島市内でも被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科、 中学校、高等女学校の生徒8387人のうち、6295人が犠牲となったのであった。 他にも市内の各事業所に出ていた多くの学徒も犠牲者となった。

塔の左右のレリーフには、食料増産、縫製作業、工場労働、 灯篭ながしの4つの図柄が描かれている。



原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑


  碑は、原爆によって生命を奪われた子どもと教師を慰めるとともに、 「三たび原爆を許してはいけない」という平和教育を、現在及び未来に推し進める決意を表すものである。

銘文
「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」
(被爆歌人 正田篠枝)

 国民学校初等科の3年生以上の児童は空襲を避けるため強制的疎開した。 幼いため親元に残された1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科の生徒が原爆の犠牲になったのであった。



祈りの像


  碑は、原爆によって生命を奪われた子どもと教師を慰めるとともに、 「三たび原爆を許してはいけない」という平和教育を、現在及び未来に推し進める決意を表すものである。

銘文
「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」
(被爆歌人 正田篠枝)

 国民学校初等科の3年生以上の児童は空襲を避けるため強制的疎開した。 幼いため親元に残された1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科の生徒が原爆の犠牲になったのであった。

   
   
 
 
©原爆ヒロシマ製作委員会