旅は始まった。出発は中国の内蒙古自治区の区都、フフホトを早朝に発つ。
大雑把な手書きの地図示されたルートはフフホトを発ち、西へ向かう。
その後、砂漠の十字路ともいうべきエヂナから南を目指すものだった。
スヴェン・ヘディンの足跡が辿れるか、それともどこかで古の隊商路と重複するのか、交差するのか、楽しみだ。
さらにその先、砂漠の十字路と黙されるエジナは、十二世紀にチンギス・ハーン率いるモンゴル騎馬軍団が、そのころの西夏国に攻め入り、征服した場所である。
十世紀から十二世紀、西夏国の時代、遊牧民の侵入に備えて立派な城郭都市、黒水城がある。この城郭都市はモンゴル騎馬軍団の手に落ちた場所である。
黒水城から南に向かう砂漠道は、あのマルコ・ポーロが東方見聞録の中に書き記した道だ。フフホトを発って西に向かうに連れ、歴史的なルートを辿れるということで、いやでも胸が高鳴ってくる。
だが、資料と呼べるのはフフホトから送られてきた粗末な地図。手元にあったスヴェン・ヘディンのゴビ砂漠探検記。シルクロードを紹介した書籍に中国全土の地図……。
何とも心もとない。つまり、多くの人は知らぬ場所であり、一般観光客が喜んで出かけるような場所ではないからだ。
しかし、その心もとない感覚と不安。これが大いに楽しいのである。
フフホトは地図を眺めればわかるが、砂漠の外れに存在する街だ。
運転手らは、自信に満ちた表情で走り出す。市街地は妙に埃っぽい。早朝から街のメインストリートには露天の市がたち、賑わいをみせていた。
そんな中、2台の北京ジープと1台のランドクルーザーは西を目指す。馬車、ロバ車。トラックにオートバイ。自転車。荷車を引いたトラクターがせわしなく、不規則ででたらめに走る市街地を抜ける。派手にクラクションを鳴らしながら3台の四輪駆動車は走る。
クルマは市街地を外れ、あっという間に郊外にでる。そこは荒涼とした荒野だ。春に近いとは言え、周囲の景色は冬。背丈ほどの枯れた草が道の両脇を覆いつくしている。道は途切れ途切れの簡易舗装路で、今夜の宿泊地であるリンカまで続いているという。
道の右手には陰山山脈に連なる狼山山脈の東端が見えている。
山脈の北はモンゴルへと続いている。ただひたすら、荒野の中を西へと進む。枯れ野の中に数頭のふたこぶラクダを目にする。中国人らは、放牧中のラクダだと説明するが、日本では動物園でしか目にしないだけに、驚く。昔からアルシャン砂漠はラクダの産地である。いきなりラクダに遭遇するとは、幸先がいいのだろうか。
ところが、途中から風が吹き出した。すわ、砂嵐か……。
だが、大した風ではないらしい。ところが、砂漠の端っこである。たちまちのうちに視界がさえぎられ。クルマのボディに砂と小石が叩きつけられる。
※
話は反れるが、モンゴル国境に近い内蒙古自治区の南に広がる草原地帯で、ここ近年、カシミア山羊の放牧が盛んになった。日本向けカシミア製品のためである。しかし、山羊や羊は本来、放牧には不向きな家畜。従来通りの放牧では、山羊と羊は草の根まで食べつくし、草原を砂漠に変えてしまうのである。
カシミア製品の生産で豊かになった内蒙古だが、それと引き換えに貴重な自然に取り返しのつかないダメージを与えてしまったのだ。
カシミア山羊が放牧されていた草原は砂漠と化した。古くからモンゴル民族に伝わるいいつけを忘れてしまった結果といっていいかもしれない。
古来、モンゴル高原で行われている放牧は自然と家畜、それと人間が共存するための放牧、遊牧だ。羊や山羊の習性を知り尽くしている正統派のモンゴル民族は草原に自生する草を食べつくしてしまわないように羊や山羊を移動させている。
ところが、カシミア製品が莫大な金を生むことを知った内蒙古に暮らす遊牧民は自生する草の量を無視したカシミア山羊を草原に放ってしまった。カシミア山羊は遊牧民が管理できないほど増え、草原の草を食べつくしてしまったのである。
第5回 ヘディンの探険路はどこにある……
Written by 西村 光生
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