フフホトからパオトウ。そこから西へ向かう道。バタンヂリン砂漠の北を通っていることから漠北路と呼ぶ人もいる。スヴェン・ヘディンの探検ルートを辿ることになる可能性は高い。彼の探険記にはラクダの隊商と出会い情報を交換しあったとある。
砂丘の連なりを進むラクダの隊商と出会ってみたいという期待を抱く。
内蒙古の砂漠地帯は四月の終わりごろから砂嵐の季節だと聞いた。凄まじい砂嵐はクルマのガラスを削り、ボディの塗装を剥がす。サンドブラストなのである。
日本の春先、桜の花が咲く前ごろ黄砂が降ることがある。その黄砂の故郷とも言えるのがバダンヂリン砂漠や、その一帯の砂漠らしい。
大抵の日本人が持つ砂漠のイメージは砂丘が連なり、ラクダが鈴の音と共にゆるゆると進んでいくあの風景ではないか。砂丘が連なる自然が織り成す一大造形こそ砂漠そのもの、その中を進むラクダの隊商……。
絵に描いた砂漠の風景だ。ところが、実際はそんなロマンチックな光景が広がっているわけではない。砂漠は乾燥地帯の代名詞だ。砂が多ければ砂漠。ドロが多ければ土漠。岩や石が多ければ岩漠と呼ばれている。
乾燥地帯の未開の荒野。これが砂漠なのである。中国では砂漠を沙漠と表記する。読んで字の如し。水の少ない場所。的を射た表現である。
バタンヂリン砂漠はどんな砂漠だろう。砂漠らしい砂漠なのか、乾燥した荒野なのか。
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砂漠、草原の交易路は今でこそ、何とか街道とか、何とかロードと呼ばれている。しかし、最初は素朴な道。道とは呼べないようなものだった。
人間が歩き、家畜が歩く。それが何度も繰り返されて道は道らしく、交易路の様相を呈してきたのである。
バタンヂリン砂漠やタクラマカン砂漠の南を通るシルクロードは有名な東西交易路で別名オアシスルートと呼ばれている。
ところが、我々が西へと進む砂漠道は途中にオアシスと呼べるような場所はない。
砂漠の北につけられた道は、やはり、交易のための道だったのだ。
多くの交易品とともに、シルクだって運ばれたに違いない。敢えて名前をつけるとするなら、北のシルクロードと言うことになるだろう。
西に向かうにしろ、その目的地が北か南かで最短距離ではないにしろ、遠回りではない道を人々は探して、そこに道を作ったのである。
隊商を率いる親方は季節によって道を選んだし、盗賊を避けるために道を変更したりしたという。
ユーラシア大陸の東西交易路として有名な砂漠地帯の南を抜けるシルクロード、絹の道と名づけたのはリヒトフォーヘンというドイツの地理学者だ。
中国語では「絹の路」というのだが、日本の漢字にない文字を使っている。
点在するオアシスを繋いで交易路として成立し、未だに頻繁に大型のトラックが行きかっている。一方、舗装されたシルクロードを新道とするなら、当然ながら旧道も存在している。歴史の古い交易路だけに旧道の旧道、つまり、オリジナルの交易路も存在している。そのような旧々、旧道は砂漠の中にその存在を発見することさえ困難な地道の場合もある。大きな交易路に重なったり、離れたりしているものだ。
出発を前にベッドの中で頭の中に叩き込んだ予備知識がふつふつと湧き出してきた。
第4回 フフホトを後に、進路は西へ……
<つづく>
Written by 西村 光生
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