モンゴル語でカラホトと呼ばれる黒水城は1902年3月。P・Kロズロフ大佐がロシアの探検隊とともに、モンゴルからチベットまでの縦断旅行を実施した時、偶然に発見したという説が主流となっている。
黒水城は仏塔の修復作業が終わり、北西にある漆喰が美しいに仏塔を考古学者は自慢する。10メートル以上はあるだろう。真っ青な空に真っ白な仏塔は目に眩しい。
周囲を取り巻く城壁は圧巻だ。高さ約9メートルほど、幅は5メートル以上ある。周辺の泥を水で練り、そのままアドベレンガにしたもので築かれ、その上を同様の泥で塗り固められていたのだろう。周辺と同じ色だけに、遠めに眺めると土漠の突起物だ。四方を2百4、50メーターの城壁で囲まれたその内部は見るも無残に破壊されている。
人間の仕業なのか、それとも自然風化なのか、見当もつかない。それはまるで建設用重機で思うがままに建築物を破壊したかのように思える。
寺院の跡、住居の跡、交易所跡と説明されれば、そうなのかと思うしかない。多分、地元の考古学者は、破壊された建築物の中や周辺に残されたわずかな遺物を探し、それらのもので判断したのであろう。
立派な資料となる遺物はコズロフ大佐が黒水城を発見したとき、お宝をごっそりとロシアに持ち去ったのだ。遺品、遺物は現在エルミタージュ美術館に保管されている。
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西側の城壁にはタクラマカン砂漠方面から吹き寄せられた砂が城壁の上に迫り、さらに城壁を越えた砂がスキー場の初心者用ゲレンデを思わせる斜面となっている。北西の角には高く聳え立つ仏塔がある。その下には、黒水城の王が水を確保するために掘ったといわれる井戸の跡。この井戸には、最後の最後に自分の妻と財産のすべてを投げ込んだと言われているのだが、そこはただのへこみでしかなく、井戸の跡といわれても、信じられない。
考古学者は最近になって黒水城の修復作業にかかわり、頻繁にエヂナと黒水城を行き来しているから心配するなという。ところが、少しの風に飛ばされてしまう砂地である。クルマで移動しているから大丈夫だというが、どうにもアテにならない。
モンゴル騎馬軍団は、何度も黒水城周辺から西夏国に侵入したが、その最後はどんなものだったのだろうか。何万、何十万かそれ以上だったか。
それは襲撃だったのだろうか。
黒水城のある場所は東西交通、交易で要衝の地だったことを考えると、黒水城とその周辺に暮らす人間は襲撃と思わなかったのかも知れない。
それこそ、いつの間にか西夏国ではなくなり元朝に変わってしまったと、その程度の感覚ではなかったのだろう。その証拠に黒水城は元朝になっても繁栄していたのだから……。
城内を歩きまわり、夕べの酒が抜けた考古学者は饒舌になり、やたらと喋りまくる。
この破壊はいつごろ、誰がやったのか。周辺には何か大きな遺跡があるのか……。
いろいろと質問するが、一方的に喋るだけで、質問の答えは適当にはぐらかす。
どうやら、ここに多くの観光客がくるようになると、お金が落ちる。町が発展して研究も修復も不自由なくできるだろうというのが本音のようだった。
フフホトからエヂナまで、何もない土漠の中を二泊三日は長い。それだけで疲れるだろう。観光的要素はまったくないのだ。
考古学者の説明だと、あの敦煌の莫高屈も西夏国のもので、時代的には黒水城と同じだという。だが、莫高屈は見るべきものがたくさんあるが、黒水城にはそれがない。学術的、歴史的な価値は間違いなくある。それだけでは観光にはならない。
そんな思いを素直に言うと、考古学者はがっかりして、地面に座り込んでしまった。
ブツブツと呟いていたが、それはロシアの悪口だった。
午前中から始まった城内の散策は昼食を終えると終わりだ。午後になると決まって西風が吹き、帰りが大変だという。
風が吹き出す前に帰路につく。途中で見かけた数々の遺跡に立ち寄り、そこで説明を受けるが、どの遺跡も朽ち果てたアドベレンガの残骸でしかない。
明日は城壁の外側を案内すると考古学者は言っていた。
第13回 黒水城とその滅亡。
Written by 西村 光生
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