ダランクブを後に、南に向かう。
「夕べ、嘉峪関のホテルに電話を入れて予約しました。今夜は風呂に入れます!」
クルマがエヂナを離れて走り出した途端、モンゴル族の男がトランシーバーで話かけてきた。声が弾んで嬉しそうだ。フフホトを出て以来、身体を洗っていないことに気がつく。
黒水城から南に向かう道は東方見聞録の中で、マルコ・ポーロが書き記してしたルートである。彼が実際にその道を旅したのかどうかはわからない。しかし、マルコ・ポーロは「カンプチュを発って、北に向かうとエチナに着く」と残している。
さらに、エヂナに向かう道は『ラクダそのほかの家畜が多く野外にはハヤブサが生息し、土人はもっぱら農耕と牧畜を生業とし、貿易に従事するものはいない』との記載もある。
現在は茫漠とした荒野であり、砂漠地帯だ。しかし、マルコ・ポーロが旅をした元の時代、このあたり一帯は緑豊かな場所がったことがわかる。
南に向かえば、そこはシルクロードの酒泉。マルコ・ポーロはシルクロードを東に向かい沙州、甘州、そして寧夏。そこからフフホトに向かって元の都、大都まで旅をしたとされている。だが、学者の説によると、マルコ・ポーロはエヂナ、黒水城には行っていないというのが有力だ。この当たりのところでマルコ・ポーロの話には嘘が多いと言われてしまうのだろう。
マルコ・ポーロのいうエチナは、あの朽ち果てた黒水城。だが、我々が泊まったのは新しいエヂナの賓館。場所がまるで違う。
本当なら、黒水城の西から南を目指さなければ、マルコ・ポーロが記したルートとはいえない。しかし、残念なことに黒水城から南に向かう道はすでに、砂漠に飲み込まれて、消えてしまったと考古学者は言っていた。
エヂナの外れから再び、砂漠道を使って南に向かう。
砂漠道の左手、東側にアドベレンガで築かれた烽火台が見えた。距離にするとどれくらいの間隔なのだろうか。説明では漢代に作られたものだというのだが、その形を残しているもの、いないものが、南に連なっているように見えた。
その昔、多くの水を湛え、とうとうと流れて周囲の砂漠を潤していた黒河の姿はない。現在はエヂナ河が細々と流れているだけだ。しかし、エヂナ河は、その上流で灌漑用のダムが作られ、エヂナ旗まで到達する水量は目に見えて減り、50年ほど前に半ば強制的に移住させられた農民や遊牧民は困惑しているらしい。
数百年前は自然の力と環境の変化。そして近年ではダムという、ある意味人為的な環境変化で人間が生活できない場所になろうとしているのだ。
地図を目で追う。すると南へ伸びる砂漠道は西安から西に続くシルクロードの酒泉にぶつかっている。
運転手に、烽火台に沿って走れないか聞く。勿論、通訳を介してである。ところが、運転手は道から反れたがらない。
「道があるから、そこを走るのが当然。無理に道から外れることはないというのだ。
その昔、黒水城からシルクロードに向かう道はエヂナ川の本流である黒河の右にあったのか、それとも左にあったのだろうか。今、酒泉に向かう道は川の西にある。
「今日の夕方には嘉峪関に着くよ。美味しい料理を食べましょう」
嘉峪関のホテルが予約できたことが嬉しいのだろう。
それを聞いた運転手は笑顔をみせた。
道の右手に迫る砂丘、ただ南に向かうだけの単調なドライブ。その中で見える烽火台だけが風景の変化だった。
酒泉に出る前、砂漠の中で万里の長城に出くわすはずだが、それは目にしていない。すでに破壊されてしまったのだろう。
昼。砂漠の中で昼食をとる。中国の弁当は日本の弁当と違って、目を楽しませてくれることが一切ない。餌という感じなのだ。パンにハム。ゆで卵。そして中国スタッフが手早く沸かしてくれるお湯とお茶。フフホトで買い込んだスナックやチョコレートがあり難い。
素朴な疑問が頭を過ぎった。それは西夏国の制覇した後のモンゴル騎馬軍団である。
彼らの目的地は西夏国の本丸、興慶府。歴史書では点在する村や集落を次々と襲い、制覇して進軍したと伝えている。そうなると気になるのは、その足跡だ。
すんなりと興慶府近くまで進軍しただろう。まさか、遠回りなどするワケがない。
順当に考えるなら、黒水城から東南東に砂漠か荒野を横切って行ったはずだ。
第15回 酒泉、シルクロードと万里の長城。
<つづく>
Written by 西村 光生
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